佐久市野沢・田町区長、佐久市協働のまちづくり推進会議委員の関裕治さんに、8月31日、佐久市市民活動サポートセンター(さくさぽ)で、区長としての活動や「さくさぽ」との出会いなどについて話を聞きました。インタビュー内容は次の通りです。
―長く離れていた佐久市に戻って来られたとうかがっています。
「私は佐久市にUターンしたんです。40年ぶりにふるさとに戻ってきたら、もう浦島太郎状態でした。たとえば、地理的には、道路を車で走っていてもカーナビを見るといつの間にか田んぼの中を走っている。それだけではありません。情緒も人間関係も変わっている。どうなっているのかと思い、とにかくいろいろな事について情報を集めようとしました」
―Uターンを決断した理由は何でしょうか。
「高校の物理教諭となり、横浜市でずっと暮らしていました。都会で仕事をして暮らしていましたが、高校を退職し再任用も終わり65歳になって、もう少し自然に戻りたい、自然の中で暮らしたいと思うようになりました。佐久市に住んでいた父が作り送ってくれていた野菜がうまかった、それはもう本当にうまかったんですよ。だから、農業がしたかったんです。それに山スキーもしていたからスキーもしたいとも。今思うと、生き方を変えることを追い求めていたような気がします。戻ってきたのは4月でした。三つの家庭菜園の教室に通って農業を学び、さまざまな情報も得ました。佐久市主催の高齢者対象の大学や公共交通問題の講演会などにも積極的に参加しましたね。外へ外へとつながっていきたかったのです」
-佐久市市民活動サポートセンター(さくさぽ)を知るきっかけは?
「正直に言うと、初めはあまりいいイメージはありませんでした。ある日、突然、「さくさぽ」から一枚のハガキが来ました。たしか「さくさぽ」をどう改革したらいいかという内容でした。でも、どうして私の住所、名前を知ったのか、不思議でした」
―しかし、それで終わったわけではありませんね。
「地元に戻って様々な活動をしてきましたが、なかなか愚痴を言い合える相手ができませんでした。「さくさぽ」で多くの人といろいろと話せるようになったのはよかったですね。区長おしゃべり会や小規模多機能自治の勉強会は面白かったです」
―Uターンしてまもなく区長に就きました。
「父は最後に数年間一人暮らしをしていましたが、亡くなるまで地域の人たちにとてもお世話になっていました。こうした人たちに恩返しをしないといけないと考え、まずは区の組長として活動しました。区の衛生委員長になって、お祭りも手伝い、屋台の誘導係になりました。笛一つで100人が一斉に動くし、たとえ私が間違った指示を出しても、みなさんきちんと判断して正しい動きをしてくれます。これは安心していい、と思いました。その後、副区長となり、3年前からは区長に就きました」
―区長になってから、新型コロナウイルス感染症が広がりました。
「総会もお祭りもできません。人は会えればコミュニケーションは取れます。それができません。しかし、会わなくてもコミュニケーションは取りたい、どうしたらいいか、と考え、年1回出していた区のたよりを月1回発行するようにしました。そうですね、このたよりを印刷するのに「さくさぽ」の印刷機をよく利用させてもらっています。長く教員をしていたので文章を書くのには慣れていましたが工夫もしました。高齢者向けに文字を大きくして、A4の1枚表裏という情報量にしたんです。高齢者の中には「たよりをファイルに閉じています」と言われることもあり、それも励みにして、今も続けています」
―田町区では女性の役員が活躍しています。
「区で役員として活動してくれる人が少ないうえ、役員が病気など活動できなくなっても補充ができない時期もありました。区長としては辛いときでした。そのころでした。ある元首相の女性蔑視発言が社会問題になりました。その時、ひらめきました。区の役員に女性が一人もいないから、女性に入ってもらったらどうだろうか、と。PTAで活躍している女性に声をかけると、「いいですよ」と即答してくれたんです。次は移住者の女性に頼むと、やはり気持ちよく承諾してくれました。若い女性は自分たちの子供が住みやすい町にしたいという気持ちがあって、活動も熱心になるのでしょうか。私たちのような高齢者は、どうしても前例踏襲に陥りがちで、行事も形骸化してしまう傾向があります。そうなると区の活動が活性化せず、面白みも少なくなります。その結果も一因なのか、役員のなり手も減ってしまうのでしょう。『今までこうだったからこうあるべきだ』ではなく、『持続可能な区にするためにはどうするか?』を考える必要があると思います」
―女性の役員の登用に加えて防災にも積極的に取り組んでいます。
「(災害時に緊急連絡ができる一斉情報配信システム)「オクレンジャー」を区で導入しました。ただ、導入するまではいろいろありました。災害に関する情報は、市民全員に届けるべきだ、と何度も市長に伝え、また区長会でも訴えました。しかし、予算の問題などがあるのでしょうが、市全体では実現できませんでした。それでは田町区のみでもなんとかやろうと考えましたが、一世帯の年間区費4000円のうちオクレンジャーの費用は500円ですから、なかなか認めてもらえないと思っていました。オクレンジャーを導入している別荘地区に見学にも行きました。災害だけでなく別荘利用者の連絡用に使っていました。これをみて区の活性化のためにも、防災はもちろん、普段からの情報交換にも利用できると思いました。二期目の区長選の際、オクレンジャーの導入をセットにして立候補し、区長に再任されました。オクレンジャーを使った訓練もしていますが、思ったよりも多くの区民が参加してくれています。不動産管理会社の仲介でアパート住まいの人にも利用してもらえるようになっています。別の区でも導入を検討しているそうです」
―地元への恩返しということですが、その気持ちを継続させる原動力は何でしょうか。
「好奇心でしょうか。私はこれを満たしていかないと萎んでしまうんです」
―行政や民間の立場をこえて、いろいろな機関が一緒に取組む協働のまちづくりを佐久で進めるために、何が必要だと思いますか?
「区長を引き継ぐ際に、前区長が務めていたまちづくり推進委員に就任しました。協働がうまくいかない理由の一つは、市民側に「協働」の理解が不足していること、もう一つは、市の一部職員の視点が上から目線になってしまっていることがあると思います」
―「さくさぽ」に求めることはありますか。
「“聴く”力が“つなげる”力と比べ、格段に弱いという印象があります。ただ、聴くことが難しいことはわかっています。たとえば、私の教員時代に全然意見を言わない生徒がいました。みんなの前では発言しないのですが、1対1だと話してくれました。複数の手段を使って対話をしていくしかないと思います。特に、何が問題なのかがわからずに問題を抱え込んでいる人には、1対1で話を聴きますという姿勢を示すことが大切ではないでしょうか。「さくさぽ」の仕事は、高校の先生の仕事も同じように感じますが、サービス業でありながら、営業活動しなくてもある程度のお客さんが来る点から、サービスの需要とずれていても気づきにくいことあると思っていました。こうした部分の意識改革は難しいことはよくわかっています。具体的には、「さくさぽ」の職員も、個々の資質を向上させるしかないのではないかと思います。研修、会議における情報交換などを重ねていく事が有効だろうと思います」