味気ない避難所の食事を改善するには
乾パン、冷たいおにぎり、揚げ物の多い弁当…。避難所で暮らさざるを得ない被災者は、日がたつにつれ、「食」に対する不満やストレスをためてしまいます。こうした状況の改善に向け、長野県危機管理部と長野県災害時支援ネットワーク(Nネット)は8月22日、佐久市の県佐久合同庁舎で「避難所における食の支援に関する意見交換会」を開きました。
佐久市や小諸市、立科町、小海町、御代田町、南牧村の職員など12人が、3グループに分かれ、避難所支援の報告などを聞いたうえで、グループごとに、避難所の食の支援について意見を述べ合い、論点を整理し、食の重要性を再確認しました。私(筆者)も、佐久市市民活動サポートセンターのコーディネーターとして同センターの同僚2人と参加しました。
「避難所TKB」
県と市町村は、令和元年東日本台風災害の教訓を踏まえ、大災害発生時、市町村が開設する避難所の「TKB」の環境改善を目指しています。Tはトイレ、Kはキッチン(食事)、Bはベッドを表しています。この3つは避難所の環境の柱です。いずれも十分でないと、最悪の場合、「災害関連死」という悲惨な結果を招く要因になるとされています。
避難所は、トイレが「和式」「汚い」「段差」、ベッドが「床で雑魚寝」という課題があります。キッチン(食事)には「冷たい」「味気ない」「不安定な炊き出し」といったマイナスイメージがつきまとっています。たとえば、食事では、栄養が偏り体調を崩し、食欲不振で体力低下につながるなど、健康面に大きな影響を与えかねません。意見交換会は、県危機管理部などの報告を聞いたうえで行われ、避難所の食の改善に的を絞って、参加者らが主体的に意見を出し、課題を認識しつつ改善案を考えました。
長野県災害派遣福祉チームの長野県社会福祉協議会主査橋本昌之さんの「台風19号災害 避難所支援の現場から」と題した報告は、具体的、明確で、有意義だと思いました。橋本さんによると、避難所開設の①初期(発災前から発災後3日くらい)、②前期(4日頃から10日頃)、③前期(10日頃以降)、④後期(1か月以降)の段階に分けて、経験に基づいて得た課題を示してくれました。
避難所の食の問題とその対応は
特に食に関しては次のように説明しました。
①乾パンなどの備蓄品しかなく、避難所によって届く量にばらつきもありました。離乳食や介護食などの食事の準備は難しかったそうです。
②おにぎりや弁当は衛生面から冷たい状態で届きます。このため温かいものが欲しいという訴えが多くなります。一方で、支援物資としてレトルト食品や即席麺などが届きますが、制限なくそういったものを食べてしまう人もいたようです。
③食事に関する訴えが増えてきます。避難所では衛生管理が難しい生ものやサラダが要望されるようになります。食事の摂取量にむらが出る人や、栄養が偏ってしまう人も出てきましたと指摘しました。
④避難所での炊き出しなどで、被災者らが食材を選んで食事を作ること(普段の生活で行っていることです)を取り戻すようです。キッチンカーによる被災地域でのイベント的な食事の提供もあったと報告していました。
現場報告をもとに橋本さんは以下のように訴えました。
食事は、発災初期には生命を維持するのに欠かせないものであるのはもちろんですが、その段階を過ぎて生活を取り戻していく過程では心身の健康に欠かせないものになります。しかし、実際は、食べ過ぎや栄養の偏りがひどくなり体調不良を起こしたり、安定して食事を摂取できなかったりする人たちもいます。避難生活は、復興前の長い道のりの入り口であり、避難所の運営者(市町村)・支援団体などが連携して、被災者の心身の健康維持を支えていくことが重要です。
刺激的な意見交換~温かい食事をどう提供するか
次に、長野県NPOセンター代表理事でもあるNネットの山室秀俊代表幹事のコーディネートによってグループごとに意見交換をしました。意見交換は刺激的で、多くの課題があることがわかりましが、課題解決の可能性も感じることができました。
私が加わった「3グループ」には、小海町町民課生活環境係長の遠藤健太さん、御代田町総務課主事の上林篤弥さん、佐久保健福祉事務所健康づくり支援課の主任管理栄養士井出伊織さんが入っていました。遠藤さんと上林さんは防災担当ですが、井出さんと私は防災には直接関係がありませんでした。
山室代表幹事からは(1)避難生活での食事の調達はどのようにしますか(2)キッチンカーによる食事支援の可能性についてどう思いますか、課題はありますか、という質問がありました。
(1)遠藤さんと上林さんは、小海町、御代田町ではアルファ米やリゾットなどを備蓄しているが、アレルギー対応食や薬といった個人的な必要品は備えられず、今後、避難時に持参してくれるよう住民に周知していく必要性があると話しました。また、災害の規模によって自治体の対応が変わる(変わらざるを得ない)という不透明性を指摘しました。管理栄養士の井出さんは、発災後ある程度時間がたった段階で栄養士が食事の栄養管理に関わり、またアレルギーを持つ人たちへの対応を支援できるのではないかと言いました。
(2)私は、キッチンカーは温かい食事を提供してくれるので、被災者は喜ぶと思うと話しました。ほかの3人からは、キッチンカーが避難所に来ると知った、被災者以外の人たちも集まっても、被災者か否かを判断できないおそれがある、一部の避難所にキッチンカーが集中する可能性があると指摘し、こうした課題を放置すると避難所運営者である自治体の公平性が問われかねないという意見がありました。これらを解決するには、避難所の食全体をマネジメントする人の配置が必要だということで4人の意見が一致しました。加えて、井出さんからは被災者自身が自由に調理できる「貸出キッチンカー」という仕組みを作ってはどうか、と提案がありました。被災者が避難所から離れて日常生活に戻る足がかりにもなると思われる、と全員が賛成しました。
このほか、1グループは、(1)発災初期は備蓄に頼るしかなく、社会的弱者への準備の必要性が論点となりました(2)キッチンカーの利用は、温かいものが提供され、被災者の心が和らぎ、交流の機会にもなると考えました、と発表しました。2グループは、(1)備蓄品からコンビニ弁当、スーパーなどとの(佐久地域全域)連携による食事提供と移行していくことになりますが、離乳食や高齢者食なども考慮する必要もあります(2)「佐久バルーンフェスティバル」で出店したキッチンカーなどが候補に考えられます。ただ、発災後、避難所への道路が通行できるか、キッチンカーの出店を誰が取りまとめるのか、などの課題もありました、と話しました。
キッチンカー利用の仕組みづくりが進んでいる
意見交換後、山室代表幹事から災害時のキッチンカーによる支援の仕組みづくりとその現状について説明がありました。概要は次の通りです。
仕組みは「三者連携」が骨格です。県、市町村の要請を受けたNネットがキッチンカー事業者やNPO団体などと調整し、避難所などの被災者に温かい食事を提供するというイメージです。Nネットは、県内のキッチンカー事業者にアンケート調査(2021年7月)を行い、被災地支援や支援内容の関心、支援の際の課題などを聞きました。関心のある事業者は比較的多いものの、被災地での「司令塔」(コーディネーター)の確保や情報交換の場・仕組みを求める意見もありました。2021年12月にキッチンカー事業者交流会を開いたところ、事前に対応の流れを決めておく必要性や自治体の情報発信力の弱さ、コーディネート役の存在・育成の課題などについての意見が出ました。
ただ、現状、キッチンカー事業の団体はなく、また市町村とのつながりや支援ノウハウもないとも述べました。
ではどうしたら構想が実現できるのでしょうか。Nネットとキッチンカー事業者が連携し、地域ごとに「キッチンカーによる被災者ネットワーク」を創出するため、情報共有の場を設け、将来的には、キッチンカー事業者と県・市町村、Nネットが連携し、「災害時応援協定」を結びたい、と山室代表幹事は話しました。
防災・減災は他人事ではない
避難所などの避難生活は、「非日常」であり、被災者の心身に大きな負担をかけることは間違いないでしょう。その負担を少しでも和らげ、健康を維持し避難後の「日常」に向けて希望が持てるようにするには、避難生活の環境を改善していかなくてはなりません。日本は、東日本大震災や阪神淡路大震災を挙げるまでもなく、地震による被害にあうことが少なくありません。このため「災害列島」とも言われることがあります。さらに近年、経験したことのなり大雨が発生し、河川氾濫などによる浸水被害が長野県のみならず、全国各地で頻発しています。
悲しいことですが、今後も災害は襲ってくるでしょう。しかも忘れたころにやってきます。このため、災害が起きても、できるだけ生命や財産に被害がでないようにする仕組みづくりは欠かせません。これは避難所においても同じだと思います。
防災、減災は行政の仕事だ、と言うだけで済ましていいのでしょうか。私たち市民は何もしなくていいのでしょうか。今回の意見交換会に参加して、改めてこう思いました。私たち市民にもできることはあります。たとえば、行政、NPO,事業者などよる防災・減災の仕組みづくりに関心を持ち、仕組みづくりに参画する、地域でできる防災を考え地域の人たちを巻き込んで実行に移していくことができます。防災ボランティアもあります。
この国では、「被災者」は、いつまで、体育館の硬い床で寝て、冷たく味気ない食事をし、使うことがためらわれるトイレを使い続けなくてはいけないのでしょうか。先進国を自認するなら、災害という非常時でもできるだけ日常に近い生活を送れるようにしたいものです。しかも、できるだけ早くそうなるようにすることが必要です。私たちは、いつ被災者になるか、わからないのですから。
(三島 勇)